Zero-Alpha/永澤 護のブログ

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本書は、「自己開発(啓発)セミナー」における《マインドボディコントロール》(mind-body control) の手法をモデルにして、そこで組み立てられ作動する装置の機能を分析し、その分析を普遍的に展開させる形で現代のさまざまなテーマを考え、論争していく手がかりを提起する。なお、ここで《マインドボディコントロール》とは、(本書においてはセミナー参加者の)心身がある特定の<組み合わせ=装置>に応じて統御(コントロール)される事態を意味する。また、言説的(discursive)レベルと非言説的レベルが何らかの様式で組み合わされているその都度の状態を意味する。この《マインドボディコントロール》は、<我々>の心身の統御として、心と身体の両レベルにおいて一挙になされる。本書は、ライフ・ダイナミックス社による自己開発(啓発)セミナーの潜入記録『洗脳体験』(JICC出版局)を<言表分析>の素材とする。 
本書では、セミナー分析を通じて、グローバル資本主義段階における<他者>の消去装置とその限界がテーマ化される。すなわち、「もし我々が、超国家資本が組み立てる多様で包括的な利潤収奪装置の単なる部分回路になるとするなら、その<なること>の仕組みとは一体どのようなものなのか」が本書のメインテーマである。装置の基礎的作動条件が分析・抽出されるが、それは、1.この私と、この私にとっての<他者>が生きる場の消去、2.生き延びるための<賭>の植えつけ、3.<外>の消去―訓練と救済の時空、4.我々に自分を責めさせる<告白>の装置、5.<黙示録的時空>への組み込みである。さらに、グローバル資本主義における時空の<超統御装置>とその限界が論じられる。
 以下に、分析の方法論について述べる。
 本書で言う<言表分析>は、その端緒の着想をフーコー(主に『知の考古学』)、ドゥルーズ+ガタリ(主に『千のプラトー』の「いくつかの記号の体制について」)およびデリダの<脱構築>の手法に負っているが、さらに普遍的な適用性を考慮した上で、著者が独自に再構成した分析手法である。
1.<言表分析>は、<言表行為の主体=私>の生産過程において、同時にこの主体が単なる<言表の主語>に同化してしまうプロセスに分析の焦点を絞り込んでいる。とくに、本書において意味される狭義の<言表行為>とは、あらかじめ用意された言表群を発話する行為およびその訓練・統御のプロセスを指す。
2.<言表分析>は、(1)分析対象の言表群―ここでは『洗脳体験』―がセミナーの実践領域と連結する配置が一定の規則性を持っていることを明らかにする。言い換えれば、言表群が位置する場を、言説的レベルと非言説的レベルとが連結する場の配置として限定し、その規則性を分析・抽出する。(2)同時に、<言表分析>は、その配置の規則性を変換する「分析対象の言表群と他の言表群との連結装置」を「転移された言表群」としてあらたに構成する。『洗脳体験』に対しては、本書がその「転移された言表群」である。(3)それによって、1で述べたプロセスそれ自体を脱構築することを意図する。
3.<言表分析>がとくに注目する分析の視点の一例として、セミナーでは、〈顔〉と〈声〉という複数の要素が「組み合わされた形」で操作対象になるということである。すなわち、セミナーにおいては、その強度、アクセント、リズム、持続度などの、さまざまな点に関して分析可能な〈顔〉と〈声〉が、心身に関わる意味=効果を持つ「呼びかけられる経験」を生産する形で組み合わされている。[ここでは、アルチュセールの『イデオロギーと国家のイデオロギー装置』における「召還Interpellation」概念が参照可能である。]このように、複数の要素の一定の<組み合わせ=装置>を抽出し分析することは、その分析を普遍化し他のさまざまな社会的状況・場面へと応用しながら、これらさまざまな社会的状況を分析することを可能にする。


(以下拙著『<告白>の行方』より引用)

「セミナー」を「超グローバル市場」へと超-連結し、同時に〈我々〉を超-連結する極微小的なレベルでの触発効果とともに極めて大がかりな連続性を持った剥奪の装置として展開しているものとしてとらえるなら、まさにこの「セミナー」においてこそ、「純粋な規律的機能」と「純粋な生体政治学的管理機能」の《幸福な結婚》(高度な統合)が要請され、また現実にそれが実験的に目指され、局地的にはごくごく薄められた、ぶざまな失敗のケースをも無数に含みながらも、ある達成水準においてそれが実現していると言えるのではないでしょうか。
 ここでもし〈我々〉が、無数の「セミナー」の一義性を考えるなら、あるいは〈我々〉の日常において無数に展開する「セミナー」というレベルを、一つの自己同一的な全体性/総体性においてではなく、一つの包括的な多様体として一義的に考えるなら、あらゆる、任意の局地的レベル(もちろんその都度の電子的レベルを含む)の内側へと組み込まれ閉じられていると同時に、最も包括的な超グローバル市場レベルにおいてあらゆる、任意の局地的レベルへと相互に開かれ、接続してもいる「超コントロールの時空多様体」が、古典的な監禁の空間にとって替わったという仮説に到達することになるでしょう。先の「あらゆる、何でもかまわない」とは、引用における「何の変哲もない・任意の(quelconque)」ということであり、このレベルにおいてとらえられた「私たち=我々」という「多様体=身体と人口」とその「強いられた義務やふるまいと統治/管理された生」が、この「時空多様体」においてさらに高度な統合のバリエーションを「日々」際限なく繰り広げていると考えられます。あらゆる、任意の個別的な時空を包括し統御するこの「純粋な機能の全体的な装置としての統合レベル」を、「存在の一義性」を貫くスピノザ主義的方法に従いながら、それぞれの限定された権力関係のレベルにおいて探求することが求められているのではないでしょうか。即ち、「セミナー」の一義性の探求---
(以上引用)

主要作品の概要

1.『<告白>の行方──《欠如の迷宮》の旅とその破壊』

 本書は、「自己開発(啓発)セミナー」における《マインドボディコントロール》(mind-body control) の手法をモデルにして、そこで組み立てられ作動する装置の機能を分析し、その分析を普遍的に展開させる形で現代のさまざまなテーマを考え、論争していく手がかりを提起する。なお、ここで《マインドボディコントロール》とは、(本書においてはセミナー参加者の)心身がある特定の<組み合わせ=装置>に応じて統御(コントロール)される事態を意味する。本書は、ライフ・ダイナミックス社による自己開発(啓発)セミナーの潜入記録『洗脳体験』(JICC出版局)を<言表分析>の素材とする。本書では、セミナー分析を通じて、グローバル資本主義段階における<他者>の消去装置とその限界がテーマ化される。なお、本書が採用する<言表分析>は、<言表行為の主体=私>の生産過程において、同時にこの主体が単なる<言表の主語>に同化してしまうプロセスに分析の焦点を絞り込んでいる。


2.「<教育>の場を造型する実践プログラムへの序論──線を引くこと」

本論は、グローバル化における<教育>の場の造型をテーマとする。本論において、グローバル化は、資本主義世界市場の普遍化という事態から波及する諸事象の生成場面と定義される。また、<教育>の場とは、批判的な自己形成過程の場を意味する。ここで批判的とは、他者との関係において相互的であり、かつ他者とのやり取りにおいて不可避で創造的な危機をはらむということである。本論は、グローバル化における<教育>の場を造型する実践プログラムへの序論として位置づけられる。鍵となる概念は、この私と他者が、多様な場と実践を、呼びかけと応答の時空の創造において結びつけること(<線を引くこと>)である。1でカントにおける批判の一断面を抽出しながら他者の不可避性をテーマ化し、2でグローバル化における自己と他者の統御装置について論じる。3では、<線を引くこと>の実践プログラムを、筆者自身の教育現場での実践をモデルとして提示する。


3.グローバル資本主義下における<協働>の構成――ネグリ/ハート『<帝国>』の読解を手がかりにして

本論は、グローバル資本主義下における<協働>の構成をテーマとする。我々は、この<協働>の実践モデルとして、この私が他者との間で、「私の生活の工夫/技」を伝え合うことを提起する。我々は、この<協働>の構成を、相互的で対等なコミュニケーションを試みる実践として、ネグリ/ハートのいうマルチチュードの土台とする。マルチチュードは、この<帝国>のバイオ生パワー権力の網の目に組み込まれた我々自身の生存でもある。マルチチュードと<帝国>とは、コインの裏表といった関係にある。本論では、<協働>の実践モデルが、<帝国>を変革するプログラムとして構成される。1では、「生活問題」をキーワードにして、<帝国>と<協働>の実践モデルとの関係を論じる。2では、「顔」をキーワードにして、この<協働>が、無意識の組替えとして論じられる。3では、新たな<協働>の構成プログラムに向けた実践事例を紹介して論じる。


4.「汎優生主義」のリミット

本論は、「この私は他人より、生存に値するか」という価値軸に沿って、我々一人ひとりが際限なく階層序列化されていく社会的過程を論じる。それは、<我々自身の無意識>としての、「汎優生主義(Pan-eugenics)」という新たな社会的過程である。本論では、この<我々自身の無意識>の社会哲学的分析を行う。以下に主要な論点を記す。まず、遺伝子の改変が現実化した場合、この技術的過程は、<我々自身の無意識>を介して社会的に継承されることになる。すなわち、個々人の選択に際して、技術的な力による子どもの生産という現実が、強制力として作用する。また、人の属性を序列化する価値観は、生存それ自体を序列化する価値観である。本論では、<我々自身の無意識>が偏在的なものとなった世界における個人の問題をその限界地点において提起した事例である古谷実のコミック『ヒミズ』を事例にして、「汎優生主義(Pan-eugenics)」の強制力が偏在する世界の社会哲学的分析を行う。


「<告白>の行方」林正憲氏による書評
空裏1
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*以下は、私の友人である執筆者:林正憲(Hayashi Masanori)氏
により著作「<告白>の行方」に対して寄せられた批評を、本人の許可のもとに公開するものです。
これ以上にクリアな書評は、少なくても私には想像できない。

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はじめに「装置」ありき。
 最初に「装置」を置く。それはひとつではない複数の部品からなり、その作動
による効果として、様々な個体とその経験が現れる。それは「われわれ」が自由
だとか自由でないとか、意識的だとか無意識的だとか、幼児体験や遺伝子や言語
構造などによって決定されているとかいないとか、意志があるとかないとか、そ
ういった議論には関係がない。
 「われわれ」が考え、感じ、行動するとき、すでに「装置」が働いており、し
かもこの「装置」の思考を徹底するならば、その「装置」とはすでに複数のもの
であろう。「われわれ」はひとつの「装置」によって生み出され、あるいはまた
複数の「装置」の重なり合いの結果生み出される。つまりまず「われわれ」は自
明のものであれ、疑わしいものであれ、変わらないものであれ、変化を許容する
ものであれ、具体的な「装置」から抽象された「われわれ」なるものやその自己
同一性を想定することをやめなければならない。
 「装置」は教育し、訓練し、選別し、創造し、生産する。他の「装置」とは異
なる効果を作り出す。その現実を「われわれ」が思考するのは、特定の「装置」
を批判するためである。考えることは問題を作りだすことであり、批判によって
何か方向性を示しつつ問い直すことだから。だが、批判に含まれる否定の意味に
は慎重にならなければならない。「装置」が作動している以上、「装置」を構成
する様々な要素は「われわれ」の人生のただなかにあり、それを全て捨て去るこ
とが問題なのか、それともその要素を使って別な「装置」を創造することを目指
しているのかをよく考えなければならない。もちろん、「要素」と今呼んだもの
はその「装置」の特定の「組み合わせ」によって、全く変貌してしまうような性
質をもつものではあるけれども。
 さて、「Seminar装置」を主題化する意図はこれに似た諸々の「装置」があちこち
で作動していることにある。同じようなセミナー、同じような宗教団体、あるい
はまた、学校、企業、マスメディア、社会・・・。この「Sー装置」の作動の仕
方とその効果をテキストに即して具体的に分析していくときに、類似が明確にな
る。しかし、あわてずにもう一度繰り返そう。つまり、「装置」の考え方は何を
変えるのか。
 第一に権威の破壊。何ものも「絶対的に正しい」「装置」と言う根拠はない。
ただ「装置」があり、それが作動しているだけだ。もちろん、そこには様々な心
情や、理由や根拠や救いがあると言えるにしても。そんな言表がまさに「装置」
に組み込まれている。
 第二に、では権威の破壊は何をもたらすのか。混乱か、懐疑主義か、破壊の喜
びか、ニヒリズムか、相対主義か。すると、「装置」の一元論は二分法へと変化
せざるを得ないのではないか。つまりよい「装置」とわるい「装置」・・・。そ
の結果「われわれ」の作業は「よい」ものを擁護し、「わるい」ものを攻撃する
ことになるのではないだろうか。
 「前編」でありまた「ゼロ・アルファーー出来事のために」の注釈でもある
「<告白>の行方」はその位置付け上きわめて控え目な形で、その「よい」と「わる
い」の差異に目を向けさせているように思われる。
 極端な言い方をすれば「装置」の要素やその動き自体に問題があるのでは
ない。そこを誤解すると、まるで全ての「装置」の奸計にだまされるなという偽
善を暴くメッセージの展開と思われてしまう。そうではなく、「後書き」にある
「襞の回避」つまり、多数多様化の否定、自己同一的なものの繰り返しの肯定に
こそ、問題があるのだ。「装置」とその「外」、「学校ー装置」とその「外」
といった具合に考えてはいけない。いかなる「装置」であれ、その「装置」のた
だなかに、あるいはまた傍らに、裂け目があり、予測不可能なもの、特異なもの
がある。スタートを定められないその動きによって「装置」はよいものになるの
だ。
 このような意味で、「<告白>の行方」は一つのレッスンである。「われわ
れ」は、この本に倣って、「われわれ」の生を構成する「装置」を分析しなけれ
ばならない。様々な「信じがたい」「恐ろしい」事件が頻発する時代にすること
は、起きた事件を特権的な事例にすることではなく、身の回りの「装置」の分析
をことばを尽くしてより高めていくことだからだ。批判=生き方そのものとなる
ような分析を。これはもう、趣味の問題である。この「批判」とそうでないもの
の差は微妙であり、かつまた解消不可能なほど大きなものである。「価値評価」
の問題。命を賭けた、重く軽く、愛と怒りに満ちた闘い。「われわれ」が表象に
よって理解されるような「主体」ではなく、複数の「装置」に貫かれた特異な出
来事としての、そのつどの個体化によって生み出されるものならば、「われわ
れ」は闘いの動きそのものでしかない。「われわれ」は全てをそのつどの価値評
価、創造の問題として考えるのであるから。
1998/02/22
 


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